煙害の経緯と解決まで
「日本の公害問題の原点」
別子銅山の急激な近代化で鉱業が拡大すると、製錬所から排出される亜硫酸ガスによる煙害で周辺の農作物が枯れはじめました。1893(明治26)年には農民暴動が起こり、東の足尾鉱毒・西の別子煙害とよばれるほどの公害が発生したのです。
これに対して2代総理事・伊庭貞剛は、煙害の抜本的な解決をめざし、製錬所のすべてを瀬戸内海の無人島である四阪島へ移転するという巨額の投資を敢行しました。一方で採鉱・製錬量の急増による樹木の伐採と煙害で荒れ果てた別子の山々には、毎年100万本を超える植林をおこない、大自然の再生に全力を傾けました。
「徹底的な煙害解決と地域との和解」
1905(明治38)年に操業を開始した四阪島製錬所ですが、予想に反する海風で、今度は煙害が東予一帯にまで広がりました。当時の製錬技術では煙害発生の解消ができず、住友は賠償金の契約を結ぶとともに、自ら製錬所の生産制限を課しました。
さらに中和法技術を開発し、最終的に煙害を起こさない技術を確立。そして1939(昭和14)年には、地域社会との完全な和解が実現しました。
伊庭貞剛が貫いた住友の事業精神
住友がおこなったのは、利益の何年分もの巨費を投じた環境対策でした。「煙害がある限り、補償金や慰撫という手段では根本的な解決にはならない。まして豊かな山林は回復しない」、と判断した伊庭貞剛を支えたのは「煙害をなくす」という信念だったのです。その背景には住友の事業精神がありました。
住友の精神は地域との共存共栄であり、100年、200年後を見越した事業を連綿と続けていくことです。企業は目先の利益を求めるのではなく、地域に還元しなければならない。伊庭貞剛は、この精神に則り、煙害の根本解決をめざすと同時に、大規模な植林を断行することで、別子を元の青々とした山林に戻すべく取り組みました。
【監修】住友史料館 副館長 末岡 照啓さん
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