世界経済に影響を与えた別子銅山
住友家2代・友以の実父である蘇我理右衛門が、外国人から学んだ技術を高め、銅の精錬に欠かせない銀銅分離の「南蛮吹」を確立したのが江戸時代初頭のこと。技術を通して世界とつながる、まさに住友のグローバル企業グループとしての第一歩がここにありました。
やがて住友は銅の精錬だけでなく、事業の川上を目指して原料の調達から取り組もうと、銅山経営に乗り出します。全国に技師を派遣し、いくつかの銅山で技術と経験と実績を積み上げました。これらの集積によって1691(元禄4)年発見されたのが、愛媛県新居浜市にある別子銅山でした。2㎞以上の脈幅で海抜1,100mから海面下1,000mまでとぎれることなく続く豊かな鉱脈は、世界屈指。層状含銅硫化鉄鉱床の典型で、「別子型鉱床」と呼ばれるほどです。
御用銅山としての重責を果たす
当時江戸幕府は長崎を窓口にオランダや中国と貿易を行い、砂糖や絹織物、漢方薬、書物などを輸入していました。そして諸外国が求めたのが「ジャパン・カッパー」と呼ばれるローズレッドの美しい日本の銅だったのです。銅の専売制を敷いていた幕府は、1754(宝暦4)年別子銅山を含む全国3つの銅山を長崎輸出銅の御用銅山として指定。以来、別子銅山は幕府の指定高430トンを幕末まで供出し、国益に大いに貢献しました。
国際商品を扱うグローバル企業として



当時日本と交易のあったオランダは、長崎に商館長を常駐させていました。歴代オランダ商館長は交代のたびに将軍に謁見するため江戸に上りましたが、その途中に大坂に立ち寄り、住友の銅精錬所を見学しています。住友は欧風の食器やろうそく、キセルなどを用意し彼らを歓迎し、彼らと対等に渡り合いました。土産品として住友は別子銅山の技術と工程を紹介した図録を提供しています。その結果、別子銅山は世界でも知られるようになり、シーボルトの日記にも登場するほどになりました。
銅という国際商品を扱うことによって、住友はグローバルなビジネスセンスを磨いていったのです。鎖国下にあっても世界情報を綿密に察知し、技術革新を進めていった住友。その結果、明治維新によって市場がグローバル化した際、いち早く近代化への転換を図ることができました。
次号はこの別子銅山の劇的な近代化産業革命についてご紹介します。
(写真提供:住友史料館) |