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当時、近代化に力を注いでいた明治政府は、工部省をつくって官費により学生を欧米に派遣していましたが、民間の一企業が社員を海外派遣するのは非常に稀でした。政府の支援がないなか、リスクを背負ってでも世界の最新技術を学び別子銅山の近代化を実現したいというのが、住友の経営者と若い社員どちらにも共通した思いだったのです。幸いその頃は欧米各国でエンジニア教育が始まっていたため、住友から派遣された若い留学生も同時代的に欧米の最先端技術を学ぶことができました。
明治9(1876)年4月、フランスに渡った塩野門之助は、ルイ・ラロックのアドバイスを受けて、家庭教師に幾何学や図学(製図学)を習い、合間にパリ大学のソルボンヌ校へ舎密(化学)や物理学の聴講にも出掛けました。その後、実学を学ぶためにサンテチュンヌ鉱山学校に入学。鉱山学を学び学位をとり、卒業後はフランス国内の鉱山で実地研修を重ねました。塩野が帰国したのは明治14(1881)年、日本を出てから、5年の歳月が流れていました。
世界で学んだ技術が国境を超えていく
5年もの間、異国の地で懸命に技術を学び続けた塩野門之助、そして若い社員の成長をじっと待ち続けた広瀬宰平。人と技術を重んじる住友のこころが底流にあります。
帰国後の塩野は、別子銅山の近代化に大いに貢献し、別子銅山初の自前の熔鉱炉の実現を成し遂げました。その後、別の鉱山へ移った塩野は日本初のベッセマー転炉を完成させ、日本の冶金工業の基礎を築きます。再び別子銅山に戻ってきてからは、四阪島製錬所の設計・建設に力を注ぎました。国境を超えて学んだ世界の技術は、国境を超える力を持った日本の優れた技術へと高められたのです。
【監修】住友史料館 副館長 末岡 照啓さん |