少年期に親元を離れ、別子銅山へ

広瀬宰平は文政11(1828)年、現在の滋賀県野洲市に生まれました。当時の日本では長子以外は家を出る宿命にあり、次男の宰平も別子銅山勤務の叔父に連れられ11歳で住友家に奉公しました。望郷の念を抱きながら、サラリーマン生活を送る宰平。そんな宰平にとっての幸運は、別子銅山には採鉱・製錬・運搬のすべての技術と、会計を含む経営その両方を学べる環境があったことです。さらに京都に漢学者の叔父がおり、今でいう通信教育で漢学を学びました。後に発揮されるリーダーシップは、こうした地道な努力によって培われたものなのでしょう。
産業革命を興し、住友家法を制定
38歳で別子銅山の支配人に、55歳で初代の住友家総理代人(総理事)になった宰平は、事業の基盤を着実に固めていきました。最も大きな仕事が、別子銅山の産業革命です。宰平は、開国後の日本が世界市場で競うには、欧米同様にイノベーション(技術革新)が欠かせないと判断したのです。一民間企業でありながら外国人技師を雇い入れ、欧州に社員を派遣し、別子銅山の近代化を実現しました。
一方で企業の統治システムにも着手しました。創業者と経営者の関係を明確にし、資本と経営を分離。会社はオーナーだけのものではなく、働く人すべてのものであり、信用と確実を重んじ、浮利を追わないという住友家法を制定しました。今の住友の原型を作ったのです。
国家・主家に忠誠を尽くした生涯
さらに宰平はいくつかの事業を興すと同時に、財界活動を通して国家の経済発展にも力を尽くしました。海運の近代化を進めるべく大阪商船会社を設立し、大阪商工会議所の副会頭などを歴任。大阪財界の立役者、五代友厚が「広瀬は私の左右の腕である」と言ったほど、女房役として活発に活動しました。
激動の幕末から、デフレやインフレが続き経済変動が激しかった明治時代。日本の国際競争力が脆弱な時期に宰平は事業を守り抜きました。そして亡くなる前年にこんな言葉を残しています。「逆命利君、これを忠という」。宰平の人生を貫いたのは国家や主家への忠誠だったのです。幕末の志士たちに通じる、熱くゆるぎない心でした。 |