国家に尽くすため司法官から事業家へ


伊庭貞剛は弘化4(1847)年、現在の滋賀県近江八幡市に生まれました。母親は住友の初代総理事・広瀬宰平の実姉です。国学者・西川吉輔の私塾で学んだ伊庭は、その後官僚となった西川の誘いを受け、明治2(1869)年京都に移り、司法官となります。伊庭青年の心には、国家のために力を尽くしたい、という熱意があふれていたのでしょう。ところが、明治政府では維新当時の自由闊達な空気がよどみ、伊庭は官界に対して疑問を抱き始めます。そしてついに退職を決意。故郷へ帰る前に、叔父である広瀬の元を訪ねました。
自らが現場に出向き問題を解決
そこで伊庭は住友への入社を勧められます。「日本国をつくっているのは政治家だけではない。国が栄えなければ、国民が豊かにならない」。広瀬の言葉と、公利公益を掲げる住友の事業精神に共感し、住友入社を決意。明治12(1879)年、33歳の時でした。
広瀬が住友総理事を辞職する前年、住友の事業の根幹である別子銅山に大きな問題が起こりました。ひとつは労働争議です。明治27(1894)年、伊庭は火中の栗を拾うかのごとく、別子銅山支配人として大阪から単身赴任します。上層部と現場とのコミュニケーション不足に問題の原因を見つけ出した伊庭は、意思疎通のために自ら何度も山に登り現場の声を聞き、解決の道筋をつけました。
荒れた山に植林し自然を取り戻した
もうひとつ別子銅山が抱えていたのは、製錬所が排出するガスによる煙害問題でした。これに対しても伊庭は、根本治癒の策をとります。製錬所を瀬戸内海の四阪島に移転し、荒れた別子の山には毎年100万本を越える植林を断行します。人間は自然によって生かされていることを知っていた伊庭は、子や孫の世代までを考えた解決方法を選んだのです。現在も住友グループが実践しているサスティナブル経営の源です。
常に次世代を見つめていた伊庭は、人材育成と人を残すことの重要性を教え、実践した経営者でもありました。外部から積極的に人材を招く一方、新卒者も多く採用し、社員に洋行のチャンスを与えました。そして自らは明治37 (1904)年、58歳で総理事の職を辞します。「事業の進歩発展に最も害をするものは、青年の過失ではなく老人の跋扈(ばっこ)である」という信念のもと、若い世代に道を譲ったのです。そしてその道は、三代目総理事の手によってさらに長く伸びていきました。 |