製造業育成を目指し逓信省から住友へ


慶応4(1868)年、現在の和歌山県新宮市に藩医の長男として生まれたのが湯川寛吉です。父の跡を継いで医師になることを期待された湯川でしたが、自分の意志を貫き、ドイツ法科が新設された法科大学へ転学。父から送金を絶たれ苦学して大学を卒業し、逓信省に入省しました。
ドイツ語が堪能な湯川は、ドイツを参考に日本の通信制度を確立したいと考えましたが、当時の官界でその願いを叶えることはできませんでした。また、欧米視察でアメリカの製鋼場を見学した際、日本の後進性にがく然とし、国内の製造業の育成が急務であることを感じていました。そんな時、大学の先輩である後の第三代総理事・鈴木馬左也の勧めを受け、37歳で住友に入社します。明治38(1905)年、官界での安定したポジションを投げ打っての転身でした。
住友電工の前身を設立、通信部門の基礎を築く
明治43(1910)年、湯川は住友電工ほか2社の前身である住友伸銅場支配人を兼務することになります。「これからは製造業の時代だ」。欧米視察での経験から、湯川は一流メーカーに育てるべく取り組みを始めました。伸銅場の製管事業に力を注ぎ、イギリスから技師を招いて国内初の製品も完成させました。また、翌年には伸銅場から電線事業を分離し、住友電工の前身である住友電線製造所を設立。逓信省にいた経験から、電線事業の発展を見越したのであり、被覆線、通信・電力ケーブルの製造を本格化し、その国産化に成功しました。先の通信の発展を見越した経営判断でした。こうした湯川の近代的な発想と経営手腕により、住友の製造業を確立しました。
事業の方針転換を社則で明らかに
大正14(1925)年に五代目総理事に就任した湯川は社則を制定します。社則において「営業ノ要旨」から別子鉱山の条文を削除し、産銅資本から総合企業への事業の方針転換を明確にしました。そして「住友の伝統は国家社会のために尽くすことである」と訓示し、住友の事業精神に揺るぎがないことを示しました。
近代的なトップリーダーであった湯川ですが、その横顔は柔和で、新入社員が面接で議論をふっかけてきても、真心あふれる対応をしたことで知られています。自身が苦学した経験を持つことから、若い人にも温かい心で接し、人を育てることにも真摯に向き合いました。そんな湯川のリーダーとしての姿勢は、六代目総理事へと受け継がれていきました。 |